教会の始まり

牧師  青木 由美子

 

 

〜母が残してくれたもの〜

聖書の中には、びっくりするような約束がたくさんあります。私たちの神さまは良い神さまですから、子どもたちには最良のものを与えたくて、いつも私たちを見つめておられるのです。むちをもって罰しようと待っておられるのではなく、すばらしいプレゼントを用意して待っていてくださるのです。

 

早天祈祷の恵み

 主人とともに、牧会生活に入って、今年12月で満20年になります。こんなに弱虫で、何も知らない、何もできない私を、どうしてこんなに祝福してくださるのか分からないほどです。毎日、毎日、主のすばらしいみわざに接し、日本のリバイバルへのうねりのようなものを感じています。365日毎朝5時からの早天祈祷会の中で主が与えてくださるみことばは真実であり、祈りの中で与えられたビジョンは、着々と実現しています。この早天祈祷会も、20数年前、初めて韓国を訪れたとき、区域長さんの家に朝5時にクリスチャンたちが集まって熱心に祈りをささげていることを聞いたのがきっかけでした。そのとき、「日本ではとうてい、無理ね」と思いました。

私は、目が弱く疲れやすいので、朝早く起きることは、とても難しかったのでそう思ったのかもしれません。ところが神さまは、不思議な方法で早天祈祷会を始めさせて下さいました。はじめに、私の母が朝5時に起きて、リビングで祈り始めました。その二日後、主は私を目覚めさせ、早天祈祷会がはじまったのでした。その後、主はいろいろな方法で毎朝起こしてくださいました。最初のころは、カラスが飛んできて窓ガラスをたたいたり、だれからでもない電話が鳴ったり、だれも来ていないのにインターフォンが鳴ったり、ほんとうに信じられないような方法で、主は私を起こしてくださいました。こうして始まった早天祈祷会を、なんと20年以上も続けさせてくださったのです。

 

水一杯でも飲ませるなら

 「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしくわたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ55:11)確かにこのみことば通り、神さまの約束は実現するということを、何度も体験させていただきました。そのひとつを証しさせていただきたいと思います。「私の弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(マタイ10:42)また、「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも、最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25:40) 

我が家に迎え入れたドイツからの

宣教師と共に(1951年)

55年ほど前、アメリカからの宣教師たちが、住まいが見つからなければ強制送還されると聞き、まだクリスチャンでもなかった私の母は、気の毒に思って自分の実家を提供し、その恵みによって母と私はイエスさまを信じることができました。その数年後、ドイツからの宣教師が住まいがなくて困っているのを知って、母は、さまざまな問題があったにもかかわらず、彼らが私たちの家に住めるように計らいました。この二つのグループの宣教師の働きによって二つの教団が生まれ、今はそれぞれ十数教会を擁して、日本の宣教に貢献しています。

 主が私たちをこんなに祝福してくださるのは、この母の水一杯を覚えていてくださるからではないのでしょうか。もちろん、あのようなチャンスを与えてくださったのは主ですから、すべての栄光は主のものであり、主の一方的な恵みと、大きなご計画によるものと確信しております。聖書のなかで神さまがお命じになるすべてのことは、その時は意味がわからないことがありますが、「わたしがしていることは、今はあなたがたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(ヨハネ13:7)とあるように、ずっとのちになって明らかにされるのです。

 

 

 

 

相続財産として

 

▲母とともに(1951年頃)

子どもたちに良いものを残したいと願うのは、すべての親にとって当然のことですが、どんな財産よりも価値のある信仰を相続財産として残したいと思います。それは、自分自身の生き方、それも主のみまえでどのように生きるか、聖書をどのように信じ、みことばを実践するかにかかっているのではないでしょうか。たしかに、みことばを聞いてもなかなか実行するのは難しいことが多いのですが、ひとつひとつ主の助けをいただいて成長していきたいものです。母が残してくれた財産は、ほんとうに大きな主からの祝福と、主に対する信頼、みことばを実践するという信仰生活だったと思います。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Tテサロニケ5:16-18)どんなに苦しいときでも、乏しいときでも、母はもっとも親しい友人にさえ打ち明けず主にむかって祈っている姿が私の心に焼き付いています。

「あなたのお母さんはみずくさい。どうして私に話してくれなかったのかしら」とその友人に言われたことがあります。このように祈る姿勢を示してくれた母に心から感謝しています。私自身も娘たちや孫たちに良い信仰の姿勢を残したいと願っています。 

 

 

〜「我、大いなることをなさん。ただ信ぜよ。」〜

これは三十数年前、私の兄が亡くなったとき母が聞いた神さまのみ声でした。そのころ私たちは聖霊さまの恵みを知らなかったのですが、兄が白血病と聞いたとき、聖書のみことばを握ってがむしゃらに祈りはじめました。この兄が癒されたら、きっとほかの兄弟たちや親戚の人たちもイエスさまを信じるだろう。「主イエスを信じなさい。そうすれば あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒一六・三一)この約束を信じ祈り続けました。しかし、お医者さんに言われたとおり一年後に、兄は天に召されてしまいました。母は、さきほどの主の言葉を信じ続け、棺の中から、火葬されたあとは、灰の中から生き返るのではないかと期待していました。なすべきことがすべて終わった後、何も言わない母が、あの主のことばは何だったのだろうと考えているのは明らかでした。

 

イエスさまの足

 

これは誰でしょう?(1980年頃)

(本文とは関係ありませんが・・・)

私たちも理由はわかりませんでしたが、主を信頼し、みことばにより頼むことは変わることがありませんでした。それでも、悶々とした日々が過ぎていきました。あれはいったい何だったんだろう。わからない、ああ、わからない。必死で祈り、信じきっていただけに反動も大きく、だんだん神さまが遠くにいってしまわれたようでした。それでも日曜日だけは教会に行き、一応クリスチャンとして幸せな生活を続けていました。主人と娘と母の四人のハッピーなクリスチャンホームでした。あるとき、私たちの話を聞いて、近くの教会に通いはじめた友人が訪ねてきて、「あなたはいいわよ。幸せだからクリスチャンしてられるのよ! 私みたいに、こんなに問題があって、それが解決されずに、クリスチャンなんかやってられない。教会の奉仕の重荷が加わっただけよ。神さまなんか、知らなかったほうが、楽に暮らせたのに」と泣いて訴えてこられました。私はそれまで、小さいときから、主を信じて生きることは幸せになる道だと思っていましたので、その友人が主を信じて幸せになってくれることを願っていたのですが、この言葉に頭をガーンと殴られたようなショックを受けました。その夜、泣きながら、「イエスさま、どうしてですか。イエスさまが本当に生きておられる神さまなら、彼女をどうして助けてくださらないのですか」教会に行っても、わずかな数のクリスチャンたちがひそやかに世に隠れた存在のように過ごしている、こんなはずはない。「主よ。なぜですか。答えてください」涙を流して主に訴えていたとき、突然、皮のサンダルのような履物をはいて、砂まみれになった足が目の前に見えました。歩いておられるイエスさまの足だとわかりました。群集がその後に押し迫っていました。後ろには舟や網、小屋などを置いて、主の後をついていく大勢の人々の姿が見えました。私はそれまで、幻というものを知らなかったので、心の中で想像したのか、映画のどこかの場面が浮かんだのかと思いましたが、喜びが心の底からわきあがり、さきほどの悲しみの涙と違って、こんどは、喜びの涙があふれ出ました。友人たちに、その話をしても、誰もわかってくれませんでした。しかし、その喜びは消えることなく、ふつふつと湧き上がってくるのでした。

 

幸福への招待

一週間ほどたってから、主人が突然、テレビの番組表を見て、「これはキリスト教の番組じゃないか」と私たちをテレビの前に呼びました。見ると、十字架を掲げている建物に大群衆が吸い込まれていく映像が映し出され、「幸福への招待」という番組が始まりました。それは、イエスさまの後を大群衆がついていくあの幻と同じに思えました。チョー・ヨンギ先生が語られるメッセージは、まさに聖書から飛び出してくるようなお話、そして証しも、聖書にある通りの事が起こっている、いままでに聞いたことがないような驚くべき神さまの御わざについてでした。それ以来、毎週吸い込まれるように、メッセージと証しを聞き、だんだん目が開かれてきたのです。半年後には、訪韓信徒聖会に家族そろって参加し、聖霊さまの恵みを体験しました。それ以来、主に造り変えられ、命がけで主に仕えることが始まりました。「私たちの人生も、仕事も、家も、時間も、家族もすべてあなたのものです」と家族で献身の祈りをささげました。「教会がほしい。本当に主に喜んで仕えることができる教会を与えてください」と祈りだしてまもなく、私たちの家を教会として用いていただこうと、新しい家を建て、礼拝のできる一室をもうけました。また、韓国から一人の先生をお招きするよう準備を進めました。

 

主人の決心

 

▲教会が始まった頃(1984年)

ところが、献堂式の前日、韓国から電話があり、その伝道師の先生が来日できなくなった、旅行会社が彼のパスポートをなくしてしまったとの連絡を受け、急遽主人がメッセージをするはめになってしまいました。その後、主人は覚悟して、「主が語るべきことを教えてくださったら語ります、教えてください」と祈ったとき、「わたしの心は聖書の中にある、どこからでも語りなさい」と示され、それ以来牧師として導かれてきました。こうしてひょんなことから、教会が始まってしまったのです。「我、大いなることをなさん。ただ信ぜよ」という主の言葉を聞いてから十三年がたっていました。私たちの教会の始まり、これが主のなされる大いなることの始まりだったのですが、主の言葉があっても、忍耐を持って待ち望むことの大切さを教えられたのです。

 

 

〜「牧師夫人にだけはなりたくない」〜

 つい先日、ある若いご婦人が、「私は牧師夫人にはなりたくないと思っていましたが、先生を見ているととても幸せそうでいいなあと思うようになりました。」とご自分の考えが変えられたことを言われました。そう言えば、私も牧師夫人にだけはなりたくないと思っていましたが、案の定、なってしまいました。神さまはユーモアのあふれたお方で、うっかり、どこそこだけは行きたくないとでも言おうものなら、必ず行くはめになるものです。そういう例を山ほど見ていたのに、自分のことについては正直に心情を吐露してしまったのです。

 

特別に扱われる

家族が主に従う決心をしたあと、牧師にだけはなりたくないと言っていた主人が牧師になり、私もいやおうなく、牧師夫人になったのでした。牧師や宣教師として献身するというのは、二階に上がってはしごをはずされるようなものだとは、主人の口癖ですが、そのあたりが、普通の信徒とは違うところなのでしょう。実際、牧会していると、誤解されたり、裏切られたりすることはよくあることですが、どんなにいやなことがあっても、やめるわけにはいきません。教会を変わるわけにもいきません。主に仕えることが第一の務めだからです。

誤解したり、裏切ったりすることは、本人はまったく意識しないですることが多いですから、自分のことを省みると、大なり小なり、牧会する私たちも知らないうちにしていることであると思います。イエスさまこそ、愛する弟子たちに誤解され、裏切られたお方でした。でも、主は一度でも愚痴をこぼされたでしょうか。そんな弟子たちのためにも、いのちを捨ててくださいました。真実に愛してくださいました。そう思うと、いろいろな出来事からも感謝の気持ちが生まれてきます。

主は、いかなる人をも愛してくださり、その愛は完全に公平です。「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも、正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5章45節後半)とあるように、クリスチャンにだけ、特別なことをしてくださるわけではありません。それでも、ある人たちを特別に祝福し、心にかけておられるように思えるときがあります。私たち自身も神さまにひいきされているように思われることがよくありました。「知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。」(詩篇4篇3節)というみことばの通りです。

これは、私のことではなく、いろいろな牧師先生の奥様からうかがったことからわかったことですが、教会に問題が起こったとき、牧師夫人は攻撃の対象となったり、非難されたりすることが少なくないということです。確かに原因が私たちにあることも多いでしょう。しかし多くの場合、それがだれかを責めることになるため、「主がご存知です」としか言えず、ひとことの弁明すらできないことがあるのです。主の前に出て、ひとりで泣いて祈ることしかできません。しかし、そのような場合、主が全面的に私たちをサポートしてくださるのです。時が来るといろいろなことが明らかになり、失われた名誉も回復してくださいます。主は、私たちを特別に扱ってくださっているとしか思えないことも何度も体験しました。

 

献身の度合い

母の実家に迎え入れたアメリカからの宣教師、

本山ジュリア春江先生とともに

牧会をするようになってわかったことですが、主は私たちの献身の度合いによって、後ろ盾になってくださる程度が違うのではないかということです。この場合の献身とは、牧師であるとか、宣教師になるという意味ではありません。これは、すべてのクリスチャンに求められている献身のことです。私たち自身が主のものであることを認め、ほかの何者をも神としない生き方のことです。主は私たちの日常の行動や言葉を見たり聞いたりしておられるのです。

シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが、「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。」(ダニエル3章16節-17節)と告白したとき、それを聞いていたのは、ネブカデネザル王だけではなかったのです。天地の造り主であるお方がそれをお聞きになっておられたのです。

実に私たちは、天地の王であるお方に仕えているのです。100パーセント良いお方、私たちを愛してご自分の御子さえ惜しまずに与えてくださったお方、私たちに最善のもの、最高のものを与えたいと願っておられるお方、この方の愛を知るとき、牧師夫人にでも何でもなりますと言えるのではないでしょうか。私も、「私のような者を主の大切な御用をさせていただく場所に置いてくださって感謝します。牧師夫人にしてくださって感謝します。」と言えるようにしてくださいました。主が導いてくださる所に、私たちはいるべきではないでしょうか。

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