グッド・サマリタン・チャーチ

教会の歩みを振り返って

金子 真喜

 

水明台二丁目時代

 

水明台の旧会堂に移る前、私たち一家はそこから歩いて5分ほどの、水明台二丁目の小さな家に住んでいました。その家に引っ越したのは私が2歳の時でした。まだ周りに家が少なく、空き地がほとんどでした。私の両親は英語の先生でしたので、家で英語教室を始めました。そのために増築して、「勉強部屋」と呼んでいた部屋ができました。その部屋で、日曜学校が始まりました。私が小学校1年生の時です。近所の友達が集まってきて、イエスさまのお話を聞き、暗唱聖句をしました。みんなかわいい小さなノートをもらって、そこにみことばを書き、シールをもらって貼っていたのを覚えています。

その日曜学校は祝福され、数年後にはその勉強部屋では入りきれなくなって、二クラスに分けてしなければならなくなりました。

毎年のクリスマスは大好評でした。子どもたちばかりか、近所の大人たちも総出で準備し、近くのキャンプ場などを借りて大がかりにしていました。毎年母が劇の脚本を書いて、9月頃にはキャストを発表して劇の練習を始めました。この劇も、始まって何年かすると、人数が多すぎて、降誕劇とその他の劇の二本立てでするようになりました。

 

▲最初のクリスマス(1976年12月)

 

 

日曜学校が始まったのと同じ頃、平日に週一回、近所の主婦の方々が集まって、賛美の集会をするようになりました。当時は今のようなワーシップソングはなくて、聖歌を歌っていました。この中から、何人も救われる人が起こされたのですが、この群は教会ではなかったので、母はその人たちを近くの教会に送り出しました。でもなかなかうまくいかず、泣いて戻ってくる人もあったようです。

 

転機

 

そんなある日のことです。(私は学校に行っていて、いませんでした。)父が新聞のテレビ欄で「幸福への招待」という番組を見つけ、何気なくテレビをつけてみました。すると映ったのが巨大な教会、そこに大群衆がつめかけているのです。それこそ世界最大の教会、韓国ソウルのヨイド純福音教会でした。それからチョー先生が登場し、メッセージが始まりました。今も生きて働かれる神さまのことを、力強く語られるメッセージに、父も母も祖母も圧倒されたようです。それから毎週、テープにもとって、チョー先生のメッセージを楽しみに聞くようになりました。

私が中学一年の夏、その「幸福への招待」で、「訪韓信徒大聖会」という韓国ツアーが企画されました。私の両親は、家族で行くことに決めました。私はちっとも行きたくありませんでした。そのツアーは、まず断食祈祷院へ行って、断食することから始まるツアーだったのです。

とにかく、両親と祖母と私と四人で、韓国の地を踏みました。当時の韓国は、ソウルオリンピックよりも前でしたから、空港からして今のように美しく整備されてはいませんでした。しかも、行った先のオサンリ祈祷院は、まだ建築中で、「こんなところに泊まるの?」という感じでした。その上、生まれて初めての断食は、たった一日半だったのですが、とてもつらくて、「早く帰りたい」と言って両親を困らせました。後で聞いた話では、母と祖母とは二人で私のために必死で祈っていたそうです。その祈りがきかれたのでしょう。祈祷院で迎えた次の朝には、いやだという気持ちが消えていたのです。二日目はメッセージもよく聞くことができ、聖霊様のことを初めて知りました。

それから、祈祷院を出て、ヨイドの教会へ向かいました。巨大な教会堂のほかにも大きなビルがいくつかあり、いろいろなところを見学させていただきました。また、日本人数人ずつのグループに分かれ、区域礼拝に連れて行っていただいたのも貴重な経験でした。

 

オサンリ祈祷院にて。

▲ホテルの窓から。ヨイド純福音教会の日曜日。

 

 そして、一番圧倒されたのが日曜の朝の光景でした。この時は教会の真向かいのホテルに泊まっていたのですが、すごかったのは一日七回の礼拝の、入れ替えの時間です。大型バスがあとからあとからやってきて、人を降ろし、乗せていく。タクシーも数え切れないほどやってきては人を拾って走っていく。こんなにたくさんタクシーがいるのに乗れない人がいて待っていて・・・。出てくる人の波がとぎれたら、今度は入っていく人々の波。教会に入るために並んで待っている人々、そして人員整理をするガードマンもたくさんいました。眼下で繰り広げられ、繰り返される、このものすごい光景を、飽きもせずにながめていました。

この日の礼拝は、感動的な礼拝でした。ちょうど八月十五日の終戦記念日でした。折しも日本と韓国は教科書問題で揺れており、韓国の町なかには「日本人謝絶」と書かれた店もたくさんあるような時勢でしたが、この日のメッセージは「ゆるし」でした。日本人はみな泣いていました。

金成植先生。前列左から2人目。

 1983年7月来日時、水明台二丁目の家で。

 

 

この時の訪韓ツアーが、私たちの教会の原点となりました。これからまもなく、父はチョー先生の英語のメッセージの翻訳を始め、それが大きな学びとなったようです。この訪韓で、さまざまな出会いもありました。ホーリーバイブルチャーチの故・村田重信先生には、その後親しくしていただき、いろいろ教えていただきました。献堂式にも来て下さいました。(後に、今の会堂の献堂式にも来て下さいました。)

これより前に、家での聖日礼拝は始まっていました。

家族が中心でしたが、武藤さんが救われて加わって下さり、さらに何名かが集っていました。赤ちゃん連れの小坂井ファミリーも、遠い大阪から車で通って来られました。この訪韓をきっかけに、新しい場所を具体的に祈り求め始めました。韓国の区域礼拝で出会った、金成植先生という若い牧師先生が、日本に行きたいという熱いビジョンを持っておられ、私たちのところに迎える準備を進めていったのです。

 

 

 

水明台旧会堂時代

 

こうして与えられたのが、水明台一丁目の旧会堂でした。この建築についてもたくさんの奇跡、主の導きがありました。

教会の名前は、チョー先生の「よきサマリヤ人」のメッセージから、川西グッド・サマリタン・チャーチと決めました。よきサマリヤ人であるイエスさまにならって、「あなたも行って同じようにしなさい」のみことばを実践する群となるためです。

 

鍬入れ式。1984年7月7日。

当時、となりは空き地、後ろは山でした。

 

建築中。

 

 

 

 

水明台の旧会堂。

 

献堂式は1984年、私が中学3年の12月1日でした。先に書いた金先生が、この日のためにパスポートを用意し、ビザを取り、航空券を買って準備しておられました。ところが、とんでもないハプニングが起こったのです。旅行会社が、あずかっていた金先生のパスポートを紛失してしまったのです。このため、土壇場で、金先生は来られなくなってしまいました。(この先生は後にウルグアイに宣教師として行かれました。)もう献堂式の案内は出してあります。やむなく父が講壇に立ちました。これが父の牧師としての出発となったのです。

 

 

 

▲献堂式の日(1984年12月1日)

▲礼拝風景(1985年4月)

 

 

水明台の最初の頃は、まだ礼拝出席人数は十数名でした。会堂に机を並べて聖書を開き、ゆったりと礼拝していました。

礼拝後には、いつも祖母がおいしい昼食を作ってみんなにふるまってくれました。これが愛餐の前身です。いつも家族の交わりがあり、とても楽しい教会でした。

 

最初のお葬式

▲神先英三さんのお葬式(1985年5月5日)

 

 

 水明台の会堂ができて約半年後、水明台二丁目時代から来られていた、初老の男性の方が天に召されました。救われる前から重い病気だったのですが、奇跡的に回復し、約一年の恵まれた教会生活のあとで召されたのです。機会がなくて洗礼を受けることはできませんでしたが、はっきりイエスさまを信じておられ、天国への凱旋でした。

 お葬式をご自宅で、キリスト教式ですることになりました。父は村田先生に電話しました。「先生、司式に来ていただけないでしょうか。」でも先生はご都合が悪かったのです。「青木先生がなさったらいいですよ。」

 これが、初めてのお葬式でした。葬儀社はキリスト教ではなく一般の会社で、菊の花が飾られていましたが、主の慰めに満ちた、すばらしい葬儀となりました。

 

 

 

 最初の洗礼式

 

 

第一回洗礼式(1985年8月29日

峰山レクリエーションセンター)

 

 

 1985年の夏、兵庫県の峰山というところで泊まりがけの聖会がありました。教会から十数名で参加しました。その時に、村田先生の教会のメンバーの方が一人、洗礼を受けることになっていたのです。それにご一緒させていただくことになり、急遽6名が洗礼を受けることになりました。私もその一人です。宿舎のお風呂を借り切っての洗礼式でした。洗礼服4枚は村田先生のところからお借りしたのですが、しゅうちゃん(松村秀一伝道師)と、武藤さんの息子さんの英明さんは、Tシャツ・短パン姿での受洗となりました。

 

 

水明台時代の会堂と礼拝

 

水明台の礼拝堂は20畳、今の小礼拝室(グレース)よりさらに小さかったのです。天井が高いのでそんなに狭い感じはしませんが。そこに、初めは机を並べてゆったりと礼拝していました。でもあっという間に手狭になり、机は取り除けて、椅子をぎっしり並べるようになりました。数年後にはそれでも狭くなり、聖日礼拝を二部に分けて行なうようになりました。さらに、それでも狭くなり、礼拝が終わるとみんなあわてて新鮮な空気を吸いに行くという状態になりました。

礼拝では、ピアノを使って賛美していました。

 

 

献堂1周年記念礼拝

後にギターも加わりました。当時よく歌っていたのは、聖歌のほかに、「心の中でメロディーを」という歌集です。そのほか、「青の歌集」というものを作り、いろいろな新しい歌を取り入れて礼拝で歌っていました。小坂忠先生と岩渕まことさんの歌から多くを取り入れ、「地上では旅人」「神からの贈り物」「父の涙」などが、多くの人の愛唱歌でした。

水明台の頃には、「十時の祈祷会」というものがありました。日曜日に仕事などで来ることのできない人たちのために、火・金の平日礼拝がありましたが、それでも足りず、毎日午前10時に集まって祈るようになったのです。また、これは水明台の会堂ができる前からですが、毎朝5時の早天祈祷会は、今に至るまで一日も休まずに続けられています。祖母と母が続けてきた早天が、この教会の、知られざる(?)パワーの源なのです。

 

 

 

 

 

水明台時代の洗礼式

▲ルーテル能勢研修センターでの洗礼式

(1990年7月15日)

 

 

第一回の洗礼式は先に書いたように峰山のキャンプ場でした。その後、有馬温泉で2回、(86年5月と11月)能勢かんぽセンターで一回(87年3月)、洗礼式を持ちました。朝からみんなで行って、部屋を借りて礼拝し、お風呂を借り切って洗礼式をし、会食をするという一大イベントでした。有馬温泉で受洗した人の中には、小坂井夫妻(86年5月)、道田聖子さん(11月)、かんぽセンター受洗組には、山田雄己さん、柳生佐恵さん、西山真司さん(現洲本チャペル)、納田麻由宣教師がおられます。

その次には、87年11月と、88年5月、YMCA松尾台幼稚園のプールで洗礼式をしました。この頃受洗されたのが衣笠ファミリー、木村守さん、井上望さん、高岡栄子さん、郡山享子さん、原田淳子さんなどです。

89年からは、ルーテル能勢研修センターのプールで、洗礼式を行うようになりました。洗礼槽のついた現在の会堂ができるまで、3年間、毎年夏に行なわれました。

 

 

 

水明台時代のクリスマス

1年目、2年目は礼拝堂でキャンドルサービスをしました。でも、2年目にはもう、会堂でみんなでろうそくを持つのは危険すぎる状態になり、次の年から、緑台公民館を借りてクリスマスの礼拝をするようになりました。子どもの劇や賛美などもりだくさんなプログラムで毎年大賑わいでした。今の教会が建つ少し前、91年には川西のアステホールでクリスマスをしました。

 

▲緑台公民館でのクリスマス

(1989年12月)

 

▲建築中の会堂前にてキャロリング

(91年12月)

 

 

 

 

最初の結婚式

▲石井先生の結婚式(1988年4月9日)

 

話は戻りますが、第一回の訪韓で出会った鳥取のご夫妻がおられました。その方の紹介で、いろいろな鳥取の人との関わりができたのですが、その中から、はるばる猪名川町にやってきて結婚式をあげたいという奇特な(?)お二人が出てきたのです。そして、1988年の4月、水明台で初めての結婚式が行われました。みんなで力を合わせて、会堂やリビングをきれいに飾り付け、心のこもった食事を用意し、ささやかながらとてもすてきな結婚式ができました。

このお二人が、現在に至るまで共に主に仕え、忠実に教会で働いてくださっている石井先生ご夫妻です。

 

 

海外からのお客さま

 

第一回洗礼式をした峰山の聖会で、しゅうちゃんら若者たちが、ニュージーランドの若者たちと友達になりました。大阪のジーザスファミリーの人々です。そのうちの一人、ケビン・ウェイクハムさんは、水明台の教会にホームステイし、一緒に暮らすようになりました。日本語が上手でした。都合が悪くなると「わっからないよー」というお得意の文句が飛び出す、ちょっとシャイですが楽しい人でした。(後に日本人女性と結婚し、今はニュージーランドに帰っておられます。)

 

最初に来られた頃のスナイプ夫妻

 

 

このころから、フルゴスペル・ビジネスメンズ・フェローシップという団体から、次々とアメリカやカナダの実業家の方が来られるようになりました。これはクリスチャン実業家のグループで、牧師先生ではありませんが、伝道のために来てくださったのです。(平日の礼拝があることと、父が英語の通訳ができることから、次々とお迎えすることができたのです。)しばらく滞在して証しやメッセージをしてくださいました。その中に、ジム&ダーラ・スナイプ先生がおられました。日本に来られたときに、主から明確な語りかけを受け、カナダで成功していた事業をみな売り払って、今度は宣教師として来てくださったのです。でも、日本に行くということは明確でしたが、日本のどこで宣教するのか、まったくわかりませんでした。では、しばらくここで、ということで、私たちの教会の手助けをしてくださるようになりました。これは主が用意してくださった出会いでした。しばらくの間ではなく、ずっと共に働いてくださるようになったのです。現在は洲本チャペル牧師として淡路島で伝道してくださっていますが、毎週こちらにも来られています。

スナイプ先生の紹介で、さらにいろいろなお客さまが来られるようになりました。トニー&マージ・エイブラム先生もそうです。エイブラム先生は、これまでに世界の百カ国以上を訪れておられる、すばらしい伝道者です。1990年に来てくださった時には、水明台の会堂では小さすぎるので、川西市文化会館を借りて集会をしました。このときに救われたのが丸本さんです。

私はこの当時東京にいましたが、エイブラム先生ご夫妻は東京にも来て下さって、場所を借りて集会を持ちました。このときから、機会があるたびにエイブラム先生は訪れてくださるようになり、ついに、私たちの教会の名誉牧師になってくださったのです。

ほかにもたくさんのゲストが来て下さいました。中国伝道をしておられるジョージ・チェン先生。先生は文化大革命で投獄され、18年間獄中にいる間に教会に大リバイバルが起こったそうです。インド東部のナガランドで、命がけで宣教しておられるモア・ペングネン先生。インドネシアのリバイバルに用いられた、メル・タリ先生。先生は非常に若いときから主に仕え、死者が生き返るなどの奇蹟も体験された器です。アステホールを借りて集会をしましたが、聖霊さまの火が飛んでくるような、熱いメッセージでした。



 

新会堂へ

 

水明台時代の元旦礼拝

1990年1月1日)

 

 

 

▲起工式(91年3月3日)

 

 

 礼拝のたびに酸欠状態になるのを解消すべく、新しい場所をさがしていましたが、紆余曲折の果てに着いたのが、ここ猪名川町若葉の地でした。

設計者はクリスチャンではありませんが、道田さんのお友達の設計家の方でした。土地を見たとたんに、ひらめくようにこの形が浮かんだそうです。91年3月に鍬入れ式をし、建築が始まりました。道田工務店で建てていただきましたが、このときの現場監督が、白井昌成さんです。後にこの会堂で結婚式を挙げ、奥さんは洗礼を受けてクリスチャンになりました。昨年四人の息子さんが受洗しました。

 

 

 

 

 

 

献堂式

 

献堂式は1992年5月23日。ものすごくたくさんの方が来てくださって、席が足りず、立ち見が出るほどでした。教会の婦人たちが立派な食事を用意してくださいました。

建築関係の方々のほか、町長さんや議員さんなどが来られた落成式は、6月に行いました。小坂忠先生、岩渕まことさんによる献堂記念コンサートも、それに合わせて行われました。

 

 

献堂式(1992年5月23日)

 

 

新しい会堂で

 

会堂ができたことで、さらに活動の幅が広がりました。礼拝は、初めのころはゆったりと座ることができました。(現在は、聖日の第三礼拝は満席に近い状態です。)早天祈祷会は、畳の部屋(グレース)でずっと続けられました。(最近はシャロームに移っていますが。)

英会話教室も、先生はかわりながらずっと続けられ、その中から少しずつですが救われる人たちが起こされてきています。

結婚式も本格的にできるようになりました。「けっこんぴあ」や「ゼクシイ」といった一般の結婚情報誌に掲載されていた時期もあり、一般の方の挙式もかなりしました。ここで結婚式を挙げた人の集いを、今も続けています。

また、音響の設計をミクタムでしていただき、コンサートもできるようになりました。

 

コンサート

 

小坂忠先生らも何度か来てくださったほか、上原令子さんもお迎えすることができました。令子さんと、そのマネージャーとして来られた伊藤嘉子先生とはその後よい交わりが与えられ、今では白い家フェローシップを支えるために、月に一度沖縄を訪問するようになりました。

 

▲上原令子さんと伊藤嘉子先生

 

▲小坂忠先生と岩渕まことさん

 

 

コンサートはほかにも数々ありました。のびのある歌声でカントリー調の曲を歌ってくださったテリー・クラークさん夫妻、あふれる喜びを分けてくださるアンガス・ニコルソン先生。また、特に大きなものでは、ロン・ブラウンさんのサックスコンサート、ラニー・ラッカーさんのゴスペルコンサートがありました。また、すでに天に帰られたソン・ミンヨン先生、サラ先生ご夫妻は93年から毎年来てくださり、感動の証しと力強い賛美を聞かせて下さいました。

 

▲アンガス・ニコルソン先生

▲ソン・ミンヨン先生&サラ先生

 

 

また、川西市文化会館大ホールで開いた、94年のレーナマリアコンサートは、大変大きなイベントでした。「レーナの歌が心を震わす」というポスターが能勢電車の各駅の一番良い場所に貼られました。また猪名川町のすべての小中学校を訪問し、校長先生とお話しすることができました。チケットは教会でも扱っていましたが、すぐに完売、キャンセル待ち状態になり、大口で買ってくださったところをひそかに回って買い戻したりしました。

 

 

 

▲レーナマリアコンサート

(1994年10月13日)

 

▲控え室にて

 

 

ゲストの先生方

「天国のコメディアン」

申賢均先生

 

 

ゲストスピーカーもますます多く来て下さいました。ジョン&ヒョンチャ・クラーク先生、そのご両親のデイビッド&アイリーン・クラーク先生は、今に至るまで何度も訪れてくださっています。またヒョンチャ先生の紹介で、普通はお迎えすることなどまず考えられないような、韓国の大伝道者、申賢均先生も、1993年1月をはじめに、3回来て下さいました。「賛美の力」の著書で有名な、マーリン・キャロザース先生も来られました。また、日本の占領下でお父さまが殉教された、李賜禮先生(すでに天に召されました。)も来て下さいました。

 

 

伝道のチームもたくさん来て下さいました。1993年から、数年間、YWAM(ユース・ウィズ・ア・ミッション)のチームが続々と来て、スキットなどをしてくれました。93年5月に来たマウイのチームとは、一緒に総合公園で「子どもフェスティバル」をしました。そのほかにも、韓国からのチーム、アメリカからのチームなど、たくさんの伝道チームが訪れ、劇、舞踊、賛美などいろいろなことをして下さいました。よく、日生中央の駅前などに、一緒に路傍伝道に出かけました。

 

YWAMマウイチームと、子どもフェスティバル(1993年5月5日)

 

▲モーリス先生

 

移転後の水明台の会堂には、いろいろな方が住まわれました。その中に、ニュージーランドのノエル&イーデス・モーリス先生がおられました。先生は日本に40年おられ、日本を拠点にロシアに神学校を設立、運営しておられ、日本国内では「信仰テープ」として集会のビデオやテープの収録、販売、また書籍の出版などをしておられた先生です。99年に帰国されるまでの、4年間を、水明台に住んで、この教会をホームチャーチとして活動してくださいました。

 

 

 

 

 

 

 

今井病院

 

 ここに来てからの活動で、忘れてはならないもののひとつが、毎週火曜日の今井病院訪問でした。今井病院はここから車で10分くらいのところにある老人病院です。その病棟の一つで、毎週集会をすることができたのです。毎回、15〜20人くらいのお年寄りが集まって下さいました。最初は暗い顔をして、愚痴や家族の悪口ばかり言っていたおばあちゃんたちが、次第に変えられていき、とても明るく生き生きした表情で、私たちを楽しみに待ってくださるようになりました。「パ・パ・パ・パラダイス」という歌がみんな大好きで、手をたたいて歌っていました。踊るように賛美し、涙を流してメッセージに聞き入っていた姿は忘れられません。訪問する私たちの側が、いつも力をもらって帰りました。この訪問は、病院が改築されて道が閉ざされるまで、約2年半続けられました。

▲今井病院でのひとこま

 

 

超教派の集会

 

何と言っても一番大きかったのは、93年11月の甲子園ミッションです。多くの教会、クリスチャンが心を合わせて共に祈り、協力し合った大イベントでした。この教会からもみんなで参加しました。また、このために来日した、申賢均先生の教会のクロマハープ団と「賛美の泉」のグループが、期間中この教会に滞在し、ここでもリバイバル聖会を持つことができました。

 

クロマハープ団(1993年11月4日、

        甲子園前夜リバイバル聖会)

▲申先生から聖画をプレゼントされました

 

▲パブロ・ボタリ先生

 

95年夏の、アナコンディア大会(アルゼンチンのリバイバリスト)では、子どもたちが子どもクワイヤーに参加し、ステージに上がって賛美しました。(現在は中高生から大人になっている子どもたちです。)このときには、アナコンディア先生と共にミニストリーをしておられるパブロ・ボタリ先生が、この教会の聖日礼拝に来てメッセージをして下さいました。(主人がスペイン留学中に出会っていた先生です。)

大阪・神戸でのベニー・ヒン大会も何度もあり、この教会は接待局として奉仕しました。また聖歌隊に参加された方もありました。

 

▲ヒシャム・カメル先生

 

 

 

 

 

 

99年の世界宣教会議(京都)は、ラインハルト・ボンケ先生とチョー・ヨンギ先生がメイン講師でしたが、母がチャーチスクールを始めなさいという主の語りかけを聞いた重要な集会です。また、このときには、イスラム伝道をしておられるエジプトのヒシャム・カメル先生ご一行10名ほどがこの教会に来てくださいました。

 

 

 

 

 

 

日本人の先生方と、久保先生のこと

 

この会堂に移ってから、日本人のメッセンジャーも多数お迎えすることができました。中川健一先生、川端光生先生、奥山実先生、滝元明先生、滝元順先生、滝元望先生、田中政男先生、有賀喜一先生、スティーブンス栄子先生、大川従道先生、植竹利侑先生・・・といった先生方が、みことばを取り次いでくださいました。

また、長年西日本ルーテル教会で活躍されて、続いて、ときわ台キリスト教会を牧会されていた久保賢太郎先生が、98年に退職後、若葉に移り住まれ、この教会の協力牧師として助けてくださるようになったことは、主の大きな恵みでした。メッセージだけでなく、長年の経験と豊富な知識を生かし、農業関係、土木工事(?)関係にも、すばらしい賜物を発揮してくださっています。現在は、チャーチスクールの園芸クラブでも教えてくださっています。先生が14年間おられた蒜山農村センター(バイブルキャンプ場)には、99年の夏に教会キャンプをして、みんなでおじゃましました。また、久保先生を通して、これまでとはまたちがったタイプの、いろいろな教会や先生方との交わりも、開かれてきました。

 

 

式典いろいろ

 

▲子ども祝福式

(だれでしょう?)

 この会堂ができてから、いろいろな式典もさらに整った形で、格調高くできるようになりました。先に書いた結婚式のほか、献児式、子ども祝福式、婚約式、銀婚式、金婚式、またお葬式や納骨式、記念会と、さまざまな個人式典が行われ、それぞれにドラマがありました。式典部の方々が、いつもてきぱきと動き、支えてくださいました。

 

 

活動いろいろ(親睦行事)

 

水明台のころから毎年行なわれている、おいもほり。今は、スナイプ先生が借りておられる、紫合の近くの畑で行っています。スナイプ先生、久保先生ご夫妻、井上雅勝さんが、いつもお世話をしてくださり、年々収穫も増えています。

この会堂に来てから、おもちつきもするようになりました。毎年カレブ会やハンナ会の方々を中心に企画、準備し、みんなで楽しくいただいています。

夏や秋にバーベキューをしたことも。汗を流しながら、楽しそうに肉を焼いておられた男性の方々の姿が印象的でした。

 

 

▲おもちつき&バーベキュー

 

 

キャンプいろいろ

 

夏のキャンプは毎年ではありませんが、いろいろなところに行きました。水明台のころは、よくみんなで日本海に行きました。最初の年にはみんなでテントをはって海辺に泊まり、海水浴をしたものです。2年目のキャンプも日本海でしたが、当時中学1年生の納田麻由宣教師が初登場したキャンプでした。

 

▲最初のキャンプ

 

▲うきわの少年はだれでしょう?

 

 

遠出をしたのが、先にも書きましたが、99年夏の、蒜山へのキャンプです。牧場で牛を見たり、魚釣りをしたり、思い思いに楽しみました。

また、98年ころから、氷上郡春日町にある民家を、森川敏子さんのご両親のご好意で、お借りするようになり、春日リトリートハウスと名づけました。昔ながらの日本家屋に、十字架やみことばの掛け軸、聖画をあちこちにかけ、心安らぐ場所です。ジュニアキャンプなどで、春や夏に使わせていただいています。夏には、そこから日本海に行って海水浴をして帰ることもよくあります。

93年、94年の春には、大和カルバリーチャペルの若者たちと、合同キャンプをしました。能勢の里に遊びに行ったり、賛美集会をしたり、よい交わりが持てました。

94年夏には、メビックという子ども伝道の働きをしておられる、北海道の愛隣チャペルキリスト教会の内越言平先生ご夫妻をお迎えし、能勢川キリスト教会や神戸キリスト栄光教会など、7教会で合同のキャンプとセミナーをしました。たくさんの子どもたちと、ジュニアの先生たちが集まって大賑わいでした。

 

活動いろいろ(集会と、伝道プログラム)

 

元旦礼拝は教会のはじめからしていますが、甲子園のあった1993年、初めて、大晦日から元旦にかけて、オールナイトプレイズをしました。朝の5時まで賛美しました。それから毎年続けられています。カウントダウンをする真夜中頃を中心に、たくさんの方が集まって熱い祈りと賛美をささげています。

 

▲第一回のオールナイトプレイズ、朝まで残った人々(94年元旦)

子どもの礼拝、ジュニアチャーチは水明台時代から続けられてきましたが、この会堂に移って、子ども伝道のためのプログラムをいろいろやりました。YWAMのお兄さん、お姉さんといっしょに「子どもフェスティバル」をしたこともありますが、夏休みなどの映画会もよくやりました。また子どもクリスマス、子どもイースターは、毎年地域の子どもたちがたくさん集まって、楽しい時を過ごしています。

98年ごろには水曜ジュニアが始まりました。最初は日曜日になかなか出てくることのできない子どもたちのために始めたのですが、2000年スクール開校後、だんだんスクール生の出席が増えてにぎわってきました。そして、水曜ジュニアの後に公園伝道に行くようになりました。せせらぎ公園で長く続けた後、白金の見晴らし公園、おまつり公園、光の公園、風の公園など、パークタウン内の多くの公園で、たくさんの子どもたちがみことばを聞きました。最近では、スクールの小学生、中高生が、賛美リードやギター、ゲーム、証し、メッセージまでしてくれるようになりました。

 

 

活動いろいろ(そのほか)

 

神社の祭りに行けない教会の子どもたちのため、また地域の子どもたちへの伝道のため、と1999年に教会まつりが始まりました。宣教会ごとに、わたがし、たこせん、スーパーボールすくいなどの店を出し、ゲームや手品の時間もあり、最後に礼拝堂でメッセージとお楽しみ抽選会、という楽しい一日です。

英会話教室は、先生はいろいろ代わりましたがずっと続いています。中でもスナイプ先生は生徒に熱心に伝道し、これまでも何人もの方々を導いてこられました。その筆頭が井上雅勝さんです。

塾のような英語や数学の教室をしたこともありました。そこから教会につながった人々もいます。2000年から幼児のためのリトミック教室も始まりました。

▲クリスマスのゴスペルコンサート

 

また、実力派ゴスペルディレクターの山本真一郎さんが、この教会で2000年5月に受洗され、ここのメンバーとしてゴスペル教室もリードしてくださっています。クリスマスには、真一郎さんが指導するほかのゴスペルチームも集まって、迫力のコンサートをしています。ワークショップに参加してコンサートに出演しようという企画も行われ、地域の方々が多く参加されました。2004年11月には、ゴスペルチームがいながわまつりに出演、多くの人々の前で歌いました。

▲シンギング・クリスマスツリー

 

 

 

 

 

 

 

 

クリスマスには、もう一つ、シンギング・クリスマスツリーを2000年から行なっています。これはアメリカで大流行していたのをエイブラム先生が教えてくださり、やってみたものです。道田工務店より足場をお借りし、デッキの上に立てて、緑のケープを着てみんなでクリスマスの賛美を歌います。これもミニコミ誌で募集して、地域の方々が練習から参加してくださったこともありました。

 

 

 

 

見えないところで

祖母、日比野富子は美味しい愛餐を

作ってくれました。(水明台チャペル)

 

 

水明台二丁目のころから、礼拝に来られた方々のために、祖母が作ってくれたおいしい昼食から始まった愛餐。水明台の旧会堂、若葉の現在の会堂と、教会の歴史を通じてずっと続けられ、これを通して教会につながり、救われてきた人々も数知れずあるのです。

何人かの方々が書いてくださった、愛餐の思い出を少しだけご紹介します。

 

十年ほど前の愛餐は、味付けが作る方の家庭の味一色だったので、辛すぎて食べられないようなカレーもありました。みんなで汗を滝のように流してカレーを食べたのが、印象に残った愛餐です。(小坂井嘉信さん)

 

私達が日本に来て間もないころの平日の愛さんでの事でした。夏だったし、人数が少なかったこともあり、誰かが特別な愛さんを作ってくれました。皆は食堂で集まり、そして料理を見て喜んでいました。しかし私は自分のお皿を見た時、全然うれしくなかったです。お皿の上にはご飯とイカがまるごと乗せられていました。「あらあーどのようにこれを食べたらいいのか」と思いました。そして由美子先生はそばに座りました。「イエス様が祝福されたのでおいしいです」と言いました。「はい。」何とかして食べようと思いました。食べる途中でとてもかたいものがあったが気にせずに飲み込みました。私は食べ終わった時、自分のお皿は他人のお皿と同じで何にも残りませんでした。しかし主人のお皿は違いました。それは何かと聞くと、彼は「それ目だよ。あなた食べたのだね。」と言いました。あらあー。しかし由美子先生は「イエス様がそれを祝福したのでおいしいです」と言いました。  

(ダーラ・スナイプ先生。原文日本語、漢字 表記もそのままです、上手ですね!)

 

愛餐のほかに、この教会ならではの「接待部」というものがありました。この教会は特にゲストが多く、国内外から多数の講師や音楽ゲストなどをお迎えしたのですが、そのたびに活躍したのが接待部です。毎回、見た目にも豪華で美しく、味も極上のごちそうを、ハンナ、ルツ、エステル会あたりのベテラン主婦の方々を中心に、みなさんが用意して並べてくださいました。ゲストの方々もいつも感激しておられたものです。(これは、牧師の娘で得をしたことの一つでした。)

 

 

天に帰られた方々

▲花でいっぱいの、野田さんの葬儀

 

 

20年の間に、多くの兄弟姉妹を天国に送りました。その中でも、特に教会の中心的メンバーとして活躍されていたお二人のことを書きます。

野田治子さん。昭和16年生まれ、1990年受洗歯切れのよい東京弁がさわやかだった野田さん。とても働き者で、人のために尽くす方でした。病気になってからも、教会の玄関のワックスがけを、黙って一人でやってしまわれたことがありました。ご主人が東京に単身赴任しておられたとき、その東京のマンションにエイブラム先生ご夫妻を泊めてくださり、もてなしてくださいました。95年1月召天。野田さんの召天後、息子さんの啓三さんの結婚式がこの教会で行われました。

 

多田浩子さん。1931年生まれ、1989年受洗。とても控えめで、優しい方でした。多田神社のそばから、教会のそばのパークハウスに引っ越してこられ、早天祈祷会の常連さんでした。自然が大好きで、マンションから眺める夕日の美しさを、感動をこめて語っておられた時の輝いた目は忘れられません。手芸が得意で、教会の子どもたちにと、手作りの布のおもちゃをたくさん作ってくださいました。(フェルトのじゃんけんさいころ、皮がむけるバナナ、サンドイッチなど、どれもすばらしい作品です。)2004年10月召天。

 

 

チャーチスクールの始まり

 

今やこの教会の活動の、大変大きな部分を占めている、光の子どもインターナショナル・クリスチャンスクールは、2000年4月に4人の3歳児から始まりました。・・・これについては別のところをご覧下さい。

 

 

 20年を振り返って

 

 この文章をまとめるに当たって、20年、またそれ以前からの写真を見返していると、ああ、こんなこともあった、こんな人も来られた、という思い出が尽きません。皆さんのあまりご存じない、最初のころのことを中心に、特筆すべきと思われることだけ書きましたが、書ききれないことが本当に山のようにまだまだあります。20年を振り返って言えることは、すべてがただ主の恵みであったということです。

 これから、この教会も、またさらに歴史を重ねていくことでしょう。これからどんな時代がやってくるかわかりません。でもどのような中にあっても、ただ主のみこころだけを行なうことができるように、使命を全うすることができるように、努め励んでいきたいと思います。

 

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。     コリントI 15:58

 

 

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